もう10年。
2011年3月11日14時46分、三陸沖を震源に国内観測史上最大のM9.0の地震が発生しました。
津波、火災などにより広範囲で甚大な被害を受けました。
自宅は津波で流され家屋の欠片も何一つ無い状態。
父親も逃げる車ごと津波に巻き込まれ亡くなりました。
18年前に病気で母親を亡くしそれからは父親と息子3人の男一家。
実家には震災の数年前からは父親と3番目の弟の2人住まいでした。
その弟は幸いにして目前まで迫る津波から命からがら逃げ出しなんとか助かり。
震災後3日目にして避難所になっていた弟の職場近くの小学校で再会。
その後は避難所を何度と無く色々と捜しまわりましたが父親は見つからず...。
市役所には犠牲者の名前が一覧になって貼りだされていました。
そのリストの中に父親の名前があるんじゃないか...と確認する時は辛かった。
「家族を捜してます!」と書かれた行方不明者に呼びかけるように親族の悲痛の叫びが至る所に。
結局4月19日になって遺体安置所で対面。
当時既に閉店していたボーリング場「空港ボウル」が仮設の遺体安置書になっていていました。
中には無数の棺。
小さな子供が入る大きさの棺もたくさん。
多い日では一日50体ほどの遺体引き渡しがあって、収容された遺体の数は900体以上だったとも聞いています。
もう言葉になりません。
遺体となった父親と対面した時には涙が止まりませんでした。
棺の前にひざまつき何度呼んでもピクリとも動きません。
長男の僕は子供の頃、兄弟喧嘩をしてはいつも父親に叱られ泣いてた事がよくありました。
最後も泣かされました。
兄弟揃って泣かされました。
母親が死んだ時にもっと親孝行しておけば良かった...なんて後悔した事を思い出します。
2012年9月4日。
2011年3月13日。
生まれ育った我が家の跡地。
そこは初めから何も無かったかのようにも思えるほど瓦礫ひとつ無い。
川の前にあった実家は特に津波の流れが強かったのでしょうか。
そして父親が裸一貫で金属加工業を営んでいた家屋隣の工場。
弟と一緒に父親がそこで働いた証を探しました。
基礎には油が染み込んで真っ黒。
名残が少しだけ。
言葉を失い立ち尽くしたのが10年前。
震災後は沢山の方から励ましのお言葉を頂きました。
職場の上司や同僚、後輩、取引先の皆様、そしてスノーボーダーのお客様。
被災者でもある閖上の仲間達、隣近所のおっちゃんおばちゃん...
もうほとんど連絡をとっていなかった遠方の知り合いも、心配してくれて本当にありがとうございました。
携帯電話を持ってからほとんど番号を変えてなかったのもあって、沢山の懐かしい声が聞けました。
その温かい励ましの言葉に何度も勇気付けられました。
本当に感謝です。
そしてあの状況の中、なんとか4月1日に地元の斎場で父親を火葬してあげる事ができました。
未だに行方不明の方が数多くいらっしゃいます。
警視庁によると岩手、宮城、福島3県の震災による行方不明者は2500人以上だといいます。
一刻も早くご家族の元へ戻れたらいいのに。
東日本大震災で亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともにご遺族の皆様にお悔み申し上げます。