数少ない鉄筋建ての工場以外は何もない。
巨大津波の威力の凄まじさ。
そこにあるはずの無い漁船が鉄筋に突き刺さる。
東日本大震災から早いもので11年です。
親父がもし今でも生きていたのならちょうど80歳。
震災の8年前に病気で母を亡くしていたので当時の名取市閖上の実家には父親と弟の二人暮らし。
仙台空港近くの職場だった弟は幸いにして目前まで迫る津波から命からがら逃げだしなんとか助かりました。
震災後3日目にして避難所になっていた空港から最寄りの小学校で弟と再会。
その後は二人で市役所や避難所になっていた各地の学校や公民館を捜しまわる日々。
結局3月19日になって遺体安置所で冷たくなって横たわった父親と対面。
聞けば17日に閖上小学校付近で津波によって流された車の中から遺体で発見。
18日に安置所に運ばれて、その夜に電話連絡が入ってました。
電話に出た時には、信じたくないと思う気持ちと、やっと見つかったのかと安堵する気持ちが入り混じる不思議な感じだったのを今でも思い出します。
19日、弟と二人で遺体安置所に向かいました。
そこは数年前までは大きな商業施設で、元々はボーリング場でした。
そこが今回急遽、仮の遺体安置所になっていました。
昔は賑わっていたボーリング場は、端から端まで所狭しと沢山の棺が並んでいて。
なんとも言えない異様な雰囲気。
あちらこちらですすり泣く遺族。
そしてさらに次々と運び込まれてくる棺。
どれだけ多くの犠牲者がいるのかなんて想像もつかないほど。
係の方に案内され、対面した時には自然に涙が流れ出て。
顔色が青白い。
棺の前で呼びかけてもピクリとも動かない。
衣服から出てきた所持品と、生前体についていたであろう傷などを係の方から確認を促されます。
金属加工を生業とする父親の腕には大小の傷がありました。
まさに職人の手です。
「こちらに傷がありますがご本人にお間違えないでしょうか?」
その問いかけに何故か苛立つ。
弟は感情のコントロールが効かなくなって係の方に食ってかかる始末。
子供の頃よく兄弟喧嘩をするたびに父親に叱れては泣かされました。
自分が長男だったこともあり喧嘩の原因が何であれ叱られるのは自分。
そして鋼のような職人の拳でゲンコツを喰らわされる。
最後も泣かされました。
兄弟そろってひどく泣かされました。
母親が死んだ時にもっと親孝行をしておけば良かったと後悔したけど、まったく同じ気持ちになりました。
3月11日14時46分、被災地に思いを寄せ黙祷を捧げたい。
東日本大震災で亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともにご遺族の皆様にお悔やみ申し上げます。